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プロの間では「非常識』でも世間の感情や感覚で「常識」になること
JUGEMテーマ:日記・一般

東京大学で博士号を取った海洋学者の友人と話していた時のこと。

ある生物多様性に関するシンポジウムに参加した時に、なんか感覚が違うなぁ、と思ったという。

それは何かといえば、陸地の生物を扱っている学者は「自然は人間がコントロールできる」と思っているのに対し、海洋の生物を扱っている学者は「自然を人間がコントロールできるのは一部に過ぎない」と考えていることだという。

 

詳しい話は、途中からわからなくなってしまったが、例えば、イワシ。

イワシは、そのメカニズムはわからないが、あるサイクルで、個体数が、増えたり減ったりを繰り返しているという。

素人的には「個体数の変化は、乱獲の影響ではないか?」とすぐに考えてしまうが、友人曰く、人間が漁業で捕獲している数はたかが知れていて、イワシ全体の一部にすぎないという。

つまり、人間が、例えば、「イワシの捕獲を制限しましょう」と決めたところで、勝手にあるサイクルで増えたり減ったりしているから、意味がなく、要は、管理なんかしようがないのだという。

 

友人の理屈だと、例えば、北海道でいえば、ニシンやイカが昔に比べると不漁だ、などといわれるが、人間が管理しようがなく、人間の管理外のところで増えたり減ったりしているのだという。

変な話、このことは、生物学者や環境学者といった「玄人」の間では、わかり切っている常識らしいが、それを邪魔するのは世間の「感覚」や「感情」なんじゃないかという。

つまり、自然に対して人間ができることなんて限られているが、少しは地球のために人間が何か出来るはずだ、という感覚や感情。

何もしないのは、人間としておかしいじゃないかという、感情があるから、「人間が管理すべきだ」という議論になるのだという。

 

話は少しそれるが、水深がものすごく深い世界では、下にあるものが上に向かって浮き上がることはまずない、という。

つまり、例えば、水深5000mとか1万メートルといった世界に、核廃棄物を密閉して沈めれば、まず、なんの影響もないという。

しかし、それを許さないのは、これも感覚や感情。

今の時代、海に物を捨ててはいけない、というのは常識だ。

よくテレビでも、小笠原諸島に、少し前に中国の漁船団がサンゴを密漁しに来ていたが、その時に海洋に投棄したゴミ問題を報じている。

こうしたゴミは、海洋の表層でぷかぷか浮いているから、生物への悪影響などが自然に悪影響だ、という議論になるが、水深が深い世界に落とし込めてしまえば、全く影響はないという。

 

こうした話から、わかるのは、「プロの間で論理的には問題ない」ことでも「感覚的にはおかしい」となると、世の中は、そちらのらの方向で動く、という。

そちらの方向で動けば、国レベルでいえば、その方向で予算が確保され、それで潤う人も生まれる。

環境問題に関していえば、温暖化問題も、気象変動についても、「実際は人間のコントロール外の話」であっても、予算がつけば、それで飯が食えるわけだから、学者も何も言わない。

 

論理的にはおかしなことでも、人間の感覚や感情によって「人類は何かすべきだろう」⇒「管理をするべき」(実際には何の意味もないのに)という結論が導かれることも、世の中、実はいろいろあるんだなぁ、と思う。

(※ 自分を変える“気づき”ロジカル・シンキングのススメ メルマガ419号より)

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author:有賀正彦, category:一般コラム, 07:31
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